「シリコンバレー」という名前は1971年に生まれた。ジャーナリストのドン・ホフラー(1922~86)がある業界紙で使ったのが始まりだったという。
邱俊邦(65)がシリコンバレーにやってきたのも71年だった。「そのころ、ここらあたりは一面の果樹園だったよ」。今やハイテク企業のオフィスが立ち並ぶバレーの一角で、邱は懐かしそうに語った。
60年に早稲田大理工学部に入学した邱は渡米し、オレゴン州立大で半導体研究へと進み、シリコンバレーにたどり着いた。68年にはインテルが創業しており、時代は半導体産業の隆盛に向かって突き進んでいた。
邱は日本の計算機メーカーなどの勤務を経て、80年に会社を創業した。その半導体メーカー、IDTは急成長し、84年に株式上場に成功。88年にIDTを退職した後に起こした別の半導体企業をも株式上場に導いて、巨額の利益を得た。自己資金を基にスタートアップ(新興企業)に投資する「エンゼル」として、今も現役であり続けている。
バレーの半導体史の生き証人のような邱は、台湾勢の強さの秘密をこう語る。
「私が来たころは台湾に自由はなかった。台湾人はここで成功するほかなかった。それが、一番の理由だと思う」。台湾が自由と繁栄を手にするにつれ、バレーでの台湾の存在感は薄れてきているとも指摘した。
だが、当時、背水の陣で米国に渡ってきた移民たちはほかにもいた。台湾人が特に目覚ましい成功を収めた理由が何かあるはずだ。自分自身を客観的に分析するのは難しいのだろう。邱は答えあぐねた後に、「そうだ」と、ひざを打って言った。「小里さんは台湾生まれだから、台湾人みたいな考え方をする。彼に台湾と日本の違いを聞いてみたら、面白いかもしれない」
小里文宏(47)。シリコンバレーの日本人ハイテク企業経営者としてはただひとり、米ナスダック市場への株式上場にこぎ着け、現地日本人社会では一種、伝説的な人物である。
小里が率いるビデオチップメーカー、テックウェルで会った御当人はしかし、「いやいや僕は完全な日本人。日本が好きだし、いずれ日本に帰ろうと思っている」と笑って手を振った。
カリフォルニア大サンタバーバラ校に入学して数学科を卒業したことについても、「おやじに言われたので。で、米国で就職しようと思ったら、帰ってこいとおやじに言われて、はいはい、と。ほとんどいいなりだった」といった調子だ。
訥々(とつとつ)としたその語り口も相まって、拍子抜けするほどの飾り気のなさなのだ。
帰国した小里は、日本の電機メーカー駐在員となって、90年代初頭にシリコンバレーに飛び込み、半導体委託生産の受注を目指して得意先開拓に明け暮れた。
工場を持たない研究・開発専門の小規模半導体企業を「ファブレス」といい、当時、その業界は台湾系の独壇場だった。中国語を操る小里が台湾系の社会にどっぷりと漬かっていったのは自然の成り行きだった。
シリコンバレーのベンチャービジネスには、飛び抜けた技術が必要だと思われがちである。だが、小里は「私は技術屋ではない」と断ったうえで、「自分の発明とか技術ではなく、こういったものがほしいというアイデアの実現に向け相棒を探す。起業というのはそういうチームを作る作業なんだ」と説明する。その過程で台湾独特の起業の下地を感じた、と小里は言う。
「いろいろ相談にいく。すると、面白そうな案件には、台湾人はすぐ『一枚かませろ』と言ってくる」。もうけに対する貪欲(どんよく)さの表れであり、それが結局、人助けにもつながっている。
「日本は逆。うまくいきだすと結構、嫌われたりする」と、小里は苦笑した。
「シリコンバレーには挑戦をよしとする気風があるなどと言うけれど、実際には外国人がコネもなしに来て何かを始めるのは非常に難しい。中国人、インド人などはまず出身地の社会を頼る。だからうまくいく」
日本人ながら、台湾系社会のネットワークを最大のテコにのし上がった小里は起業を可能にするメカニズムを、こう分析している。
日本で学び、日本人と共同で事業を行う機会も数多くあった邱はしかし、起業パートナーに日本人を選んだことはない。「日本人はものすごく自分の会社を大切にする。台湾人は自分のために働くのが好きだ」
この点で、小里は日本的な部分を残してはいる。転職を繰り返してきたとはいえ、やはり自分の会社には執着がある。成功すると未練なく過去と縁を切り、新しい道に進んできた邱とは、どこか肌合いが違う。
「やはり僕は日本人」。そう言って笑う小里の車のナンバーはナスダックでのテックウェルの略語、「TWLL」となっていた。
日本から近くて遠い島、台湾。そこからの頭脳移民たちの物語は次回も続く。
=敬称略
(シリコンバレー 松尾理也)